植野が斬る!

師匠をもて

1.はじめに

今回から数回は、職歴のなかのエピソードを通して、日頃思っていることを語りたい。
前回一つ言い忘れたこと、11月7日は、アルスコンサルタンツと私の誕生日であります。

技術者として一人前になっていくために、一番重要なことは、“師匠”と言える方が、居るかどうかである。私にも、多くの師匠が居た。その方々のおかげで、何とかやってこれた。
「師匠をつくる」ことは自ら選定し努力しなければならない。誰に相談するか?これが大きな力となることをまず言っておく。
コンサルにとって、重要なことは実績と経験である。修羅場を経験しなければならない。修羅場を経験したものこそが大きく育つことが出来る。

2.橋梁メーカーにて(巴組鐵工所時代)

最初に入社したのは、橋梁メーカーであった。
この会社は、一部上場企業であったが、橋梁に関しては後発と言うことで、スタッフの多くはオリジナル部隊ではなかった。この時の社員数は1,500人、同期は56人いたが、土木系は5人であった。
その後、工場の子会社化などを行い、現在は500人ほどである。事業形態も大きく変わっている。ただ、今でも、「まじめな企業である。」とよく言われる。これはアルスコンサルタンツと共通していると思う。

コンサルとメーカーの設計の違いは、実際にすぐ現場で造るものを設計するかどうかである。
メーカーでは、なおかつ生産性を上げ、自社の工場の効率を考えなければならない。これが一番大きいと思っている。ゼネコンの設計部も同じである。

部材の材片1つをとっても、切断や溶接の仕方で工数が変わってくる。これを考慮した設計が必要である。
やたらデザインに凝った造りづらい設計をしていると、工場からどやしつけられる。こういう経験がない人たちが「デザイン、デザイン」と言っている。「デザインが悪い」というのではない。技術者としてデザインの素養は持っている。しかし、機能美と言う物もある。技術者とはそういう者。

初心者のうちは、床版と伸縮装置の図面ばっかり描かされていた。コンサルの裏設計の設計等もやりながら橋の基本を学んでいった。ある時、命ぜられたのが福島県の吊り橋の点検であった。下郷町と言う町で、町にしては大きな橋梁を管理していて、お得意先であった。民宿に泊まりこみ、1週間ほど対応したが、なかなか勉強になった。

ビッグプロジェクトでは、一連の瀬戸大橋。このようなプロジェクトは数社のJVで、数十人の技術者が分担し造り上げていく。
私の担当は瀬戸大橋の鉄道桁であった。日本で初めて長大吊り橋の中に鉄道を通すわけであるが、鉄道の列車荷重は1000tくらいある。厄介なのは鉄道桁とそれを受けている補剛桁が大きな変形を生じることである。連続して波打って移動してくる。その変形を吸収するしくみを考えるのが悩みの種であった。まあ、この時に構造物が大きく変形するということを身をもって体験したわけである。出来上がってからも、うまく列車が通過できるのか心配であった。完成後、列車を走らせるときに管理用の通路から見ていたが、吊り橋の中を列車が走ってくると、補剛桁の波が起きる。波の先に列車が見える。その波が押し寄せてくるのを見て感動した。

3.設計変更

良い仕事ばかりではない。旧道路公団や、首都高、阪神高速、名古屋高速などの仕事は非常に厄介であった。何が厄介かというと、やたら設計変更をされるところにある。
ご存じのとおり、コンサルは予備設計まででメーカーが詳細設計を行う。この時、打ち合わせのたびに条件を変えられる。実はこのやり方は、ミスを誘発するのだ。「許容応力度と実応力度の差をゼロにしろ」とも言われた。一度あまりの理不尽さに腹が立って、「板厚を1mm変えると応力がどのくらい動くかわかってますか?」と言ったことがある。しかし、理解しようとしない者にいくら言っても理解されない。
また、デザイナーが絡むと、ろくなことが無い。まあ、感性の問題ではあるが、満足しているのはデザイナーだけと言う場面が多い。こちらは大変。今回の富山市での事件などもまさにそうであった。

直轄の仕事では、受注して回ってきたコンサルの設計計算と図面のチェックから始める。結構、間違いやおかしいところがある。それを材料発注のために、資材課や工場に回す前にチェックしなければならない。材料発注までは時間がないことが多い。軽微なミスは、施工承認と言う形で直してしまうが、大きなミスは発注者に報告し、修正していく。これでミスが発覚する場合が多い。

役所からよりも、工場や現場から電話をもらうのが一番怖かった。すべて見透かされてしまう。「どうやって造るつもりなんだ?」と言われるのが一番つらい。四捨五入の関係で1mmの誤差を見抜かれることもあった。職人の目はすごい。

ある時、上司から言われて、今でも忘れられない言葉は、「仕事は会社の中だけでやるものでは無い。積極的に現場に出て、営業と付き合い、外部の人間とも人脈を作ること。学会や協会の委員会にも積極的に参加しろ。」だった。この教えが、今日の私を作り上げたと言っても過言ではない。
また、「道路橋示方書は暇が有ったら開け。」とも言われた。通勤や出張時には、道路橋示方書を見ていた。電車の中などで同じような人間を見ることも多く、「ああ、ご同業か?」と思ったが、最近はそういう人間を見なくなった。

技術者とは、師匠の教えを受けて初めて一人前になり、夢を実現していくものである。その尊敬する先輩方の影響も受けてしまうが、それが最も重要なのだ。あなたの“師匠”は誰ですか?
一方で、上司は若者の成長の“支障”になってはいけない。

インフラメンテナンス 総合アドバイザー

植野芳彦

PROFILE

東洋大学工学部卒。植野インフラマネジメントオフィス代表、一般社団法人国際建造物保全技術協会理事。
植野氏は、橋梁メーカーや建設コンサルタント、国土開発技術研究センターなどを経て「橋の専門家」として知られ、長年にわたって国内外で橋の建設及び維持管理に携わってこられました。現在でも国立研究開発法人 土木研究所 招聘研究員や国土交通省の各専門委員として活躍されています。
2021年4月より当社の技術顧問として、在籍しております。