技術情報

日本で最初のプレストレストコンクリート道路橋「長生橋」

1.はじめに

 長さが15m以上の道路橋の総数は16万橋におよび、そのうちプレストレストコンクリート(以下PCと呼ぶ)で作られた橋は42.3%を占めている。
PCとは「Prestressed Concrete」の略称で、pre(あらかじめ)stress(応力)を与えられたコンクリートという意味である。自動車など荷重によってコンクリートに生じる引張力(引張応力)を打ち消す目的で、あらかじめコンクリートに圧縮力(圧縮応力)を与えた仕組みである。

このPC技術を用い、道路橋として我が国で最初に架けられたのが「長生橋」である。(写真-1、図-1)。
石川県七尾市の市街地を流れる御祓川(みそぎがわ)に、昭和27(1952)年2月に完成し、50年の長きにわたり供用されていた(写真-2)。しかし、残念ながら、平成13(2001)年9月に河川改修にともなってやむなく新しいタイプの橋に更新され、現在は近郊の公園に移設されているが、最初のPC道路橋ということで訪れる人は後を絶たない。

 当時の施工は、現(株)ピーエス三菱の前身である東日本重工業(株)七尾造船所が行った。太平洋戦争後の混乱期に、一地方の造船所がPCの技術を事業家する過程でこの橋が誕生した経緯などを紹介する(なお、文中人物の敬称は省略させていただく)。

2.PC技術のルーツと黎明期

 PCの最初の特許は明治19(1886)年にアメリカのJackson(ジャクソン)が得たが、これを実用にした特許はフランスのFreyssinet(フレシネー)(1879~1962)であり、PCの父と呼ばれている。彼は元来コンクリートアーチの大家であったが、明治40(1907)年頃、50mのアーチ橋の実験をやっている時にPCの原理を発想し、昭和3(1928)年に高強度コンクリートと高張力鋼線による緊張・定着とを組み合わせた工法を開発し特許を取得した。

 そして第二次世界大戦後の復興工事としてパリ近郊マルヌ河に世界初となるプレキャストセグメント工法によるLuzancy(ルザンスィー)橋(1946年)をはじめ、Marne(マルヌ)5橋(1947~1951年)と呼ばれるPC道路橋を次々に建設した。いずれの橋も健全な状態で現存、供用されている。

 一方、我が国では、フレシネーが昭和3(1928)年に特許出願したのが最初とされているが、昭和14(1939)年に福井高専(現福井大学)の吉田宏彦がHoyer(ホイヤー)著の「Stahlsaitenbeton」<シュタールザイテンベトン=鋼弦コンクリートと直訳>を紹介したのがPC研究の始まりである。

 また、国鉄(現在のJR)では鉄道技術研究所でPCの研究が進められ、昭和19(1944)年、戦時色が次第に濃くなる中、その成果を「鋼弦コンクリートの研究」として発表した。そして、戦後は、復興の御旗のもと、昭和21(1946)年に商工省鉱山局鉄鋼技術委員会第8委員会として設置された「鋼弦コンクリート委員会」がPC実用化に向けてのスタートとなる。

3.東日本重工業七尾造船所の設立

 (時計の針を巻き戻す)太平洋戦争も終結に近い昭和20(1945)年4月頃、石川県七尾市の七尾湾に面した一角に広大な敷地を持つ造船所が作られた。前述した東日本重工業(株)七尾造船所である。三菱重工業社史によれば、「太平洋戦争も末期に近い昭和20年4月当社は、海軍の要請に基づき日本海方面の船舶造修能力確保の為、石川県七尾に横浜造船所七尾工作部を設置・・・(後略)」の記述が見られる。
当時、海軍の管理工場で船舶用焼玉機関(セミディーゼルエンジン)を主に製造していた七尾造機株式会社を吸収合併して三菱重工業横浜造船所七尾工作部として設立されたのである。この時、横浜造船所から一部隊を引き連れて七尾に赴任した上村義明(後に七尾造船所所長)が長生橋誕生に大きく関わる1人となる。
設立当初の七尾工作部の工場設備は、土地7490坪、建物1561坪、機械設備86台の小さなものであったが、戦争の激化にともない設備の拡大増強は急ピッチで進められ、昭和20(1945)年8月までには電気炉一基、船架(曳場能力1000屯)2台を完成して、ようやく本格的作業に入ろうと矢先に終戦を迎えることとなった。

 幸い七尾は戦災を蒙らなかったので、鋼船の建造を再開したものの、仕事らしい仕事もなく全く開店休業状態であった。
戦後の混乱期もようやく落ち着き始めた昭和21(1946)年6月頃より、沈船の引き揚げ解体並びに船舶の修理を中心とした業務が再開され、その解体により確保した鋼材を使用して、脱穀機、籾摺り機、製粉機等の農機具類、集魚灯、一輪車、練炭製造機、「アンチクリーパー」(写真-3)等々実に様々なものを造り、販売して糊口を凌いでいた。
「アンチクリーパー」というのは、「軌条用匐進止め」ともいわれており、レールと枕木を締結し移動しないようにするための鋳鋼製の固定金具であり、国鉄に納品していた。実は、この「アンチクリーパー」が後年「PCマクラギ」との出会いを取り持つことになる。
やがて、翌年には船台も新設し、ようやく本業の新船の建造にも着手し始める。特に特許を取った「七尾型開閉式土運搬船」と、ポンプドレッチャー(逡巡船)が好調で、その成績を認められて昭和24(1949)年12月に横浜造船所から分離して七尾造船所として独立することになる。

 次いで翌年、旧三菱重工業の3社分割にともなう新会社「東日本重工業」の管下におかれ、「東日本重工業(株)七尾造船所」と改称された。所長は引き続き上村義明で、総務部、工作部、伏木工作部、敦賀工作部の4部を持ち、七尾市矢田新町にある工場施設のほか、富山県高岡市伏木湊町の伏木工場および福井県敦賀市蓬莱町に敦賀工業を擁した。この敦賀工作部が日本ピー・エスコンクリート(株)(現(株)日本ピー・エス)の前身である。

4.企業存続の危機と新事業(PC)への転換

 昭和25(1950)年夏、久々の新鋼船の建造で沸きかえる七尾造船所であったが、経営状況は決して良いとはいえない状況が続いており、地元産業発展のために親会社の援助を得て何とか成り立っていたのが実情であったと思われる。本社サイドではこの頃から既に七尾造船所の将来性に対して黄ランプを灯していたという。
実は、この頃から船舶の建造方法が溶接技術の進歩にともなって従来の鋲(リベット)構造から溶接構造への転換過渡期に入っており、造船業界は大幅な設備投資、機械設備の更新の準備を進めていた。東日本重工業も後れを取るわけにはいかない。設備投資拡大の対象になったのは、立地条件がよく、当初から好調な受注に恵まれていた横浜造船所であった。

 ちなみに、弊社直前の昭和26(1951)年時点で七尾は413名の従業員を擁していたが、横浜は実に9359名を数える大所帯であったという。加えて、昭和25(1950)年6月に勃発した朝鮮動乱を契機とした鉄鋼資材の暴騰や為替レートの影響で受注した新造船の大赤字もそれに追い打ちをかける格好で、七尾造船所閉鎖は水面下で密かに進められていたのである。

 その矢先、明るいニュースが飛び込んできた。前述した「アンチクリーパ」が取り持つ縁で、国鉄鉄道技術研究所が枕木のPC化を模索している動向があることをいち早くキャッチしたのである。すでに国鉄津田沼試験場(日本で最初のPC工場)ではPCマクラギの試作研究が行われており、実用化の直前にあった。鉄道技術研究所に於いては、昭和21(1946)年頃からPCの研究が本格的に始まり、研究所内でのプレテンション桁の制作と破壊試験を数多く行っていたのである。当時、鉄道の軌道敷に使う枕木の材料は木材であったが、戦災復興のための木材需要増にともない枕木の原料としての木材の入手が困難になりつつあった。GHQも耐久性のある良質な木材を枕木に使うことを問題視していたこともあり、必然的に「枕木」から「マクラギ」への転換が求められ、PCマクラギの実用化の機運が一気に高まっていたのである。

 早速行動したのが当時、副所長だった藤田佐一郎である。藤田は昭和19(1944)年に三菱重工業に入社し、昭和23(1948)年に七尾造船所に赴任していた。豪放磊落な性格のラガーマンの反面、胆大心小を合わせ持つ俳人(俳号;雷音)でもあった。その彼の父親が鉄道技術研究所の初代所長だったことも大きな後ろ盾になった。この情報をすぐさま七尾造船所に持ち込んだのは想像に難くない。早速、上村義明はホイヤー著の原書を入手し、工作部長にPCの研究をするよう命じた。七尾造船所においてPCのスタートが切られた瞬間であった。

 上村の強い指示で技術の習得は急ピッチで進む。当時浜松町にあった鉄道技術研究所の見学、京都大学、福井高専、津田沼試験場への訪問など精力的な調査結果を踏まえて、昭和25(1950)年も暮れようとする12月20日、造船所内に「プレストレストコンクリート研究室」が新設され、PC薄板やPCマクラギの試作研究およびそれらを製造するための設備の試作研究が本格的に開始された。圧巻なのは、翌昭和26(1951)年7月8日から2週間にわたり開催された夏期講習会であり、東京工業大学、金沢大学そして福井高専から、土木・建築のみならず科学など何れも当時の各分野を代表する研究者達を招き、官公庁の土木建築関係者をも交えて熱心に勉強に励んだ(写真-4)。
こうして、矢継ぎ早におこなわれた社内での研究および勉強会を経て徐々に新事業の礎は固められていったのである。

5.PCマクラギの実用化から長生橋の受注

 夏期講習会より少し前、昭和26(1951)年4月に、運輸省から科学技術応用研究補助金を「プレストレストコンクリートマクラギおよび鉄道桁の研究」の名目で下命した。同年夏頃にまとめられたと思われる上村義明の「プレストレストコンクリート事業に就いて」には、次のような一文が残されている。
"今年度の科学技術研究費一九五萬円を下附された事は関係者を吃驚させた事である。之は鉄道の枕木を作る研究費である。而して当所は早くから枕木(原文では坑木とある)、電柱、桁、薄板、橋梁等を研究している。来る九月十六日から二十日迄毎日之等の試験を施行する"と。

 すでにマクラギの試作を完了していた七尾造船所ではこれを活用して「鋼製箱型アバット」(写真-5)の製作を行い、大量生産化を可能にしたのである。さらに"政府は研究費を出したのではあるが、既に早くから基礎研究を始めていた国鉄は枕木三千本、十米の桁百二十本、六米半の桁百十本を発注してきた。この状勢に鑑みて近く七尾市も橋梁を発注する"と述べている。
こうして、マクラグの受注、Magnel(マグネル)方式によるポストテンション方式の初めてのPC桁となる東京駅6、7番ホームの桁の試験製作(実際の現場工事は新会社創業後となる)、そして国鉄飯田線落石履桁等の受注を経て、同年10月「日本で最初のPC道路橋となる長生橋」の受注に至ったのである。

6.高耐久性のPC桁製作のための創意工夫と暗黙知の技術

 造船技術者がPCの技術を習得するのは多くの苦労があったが、もともと船を作るという優れた技術を持っていた集団だったので、PCの研究に要する設備や機械器具の製造はほとんどを造船所内での自家製で賄った。
PCの基本である高強度のコンクリートを作り、確実にプレストレスを導入する方法も数々の創意工夫で乗り切った。混和剤など開発されていなかった時代に、当時としては画期的な設計基準強度50N/平方ミリメートルを打つことが出来たのは、温水養生が可能な「鋼製箱型アバット」の考案であり、船舶のリベット打ち機を改良した締め固めバイブレータであった。
そのアバットで、水セメント比(W/C)30%という超固練りのコンクリートを打ったのである。現道示での100年耐久性を目的として設定された工場でのPC桁想定W/C(36%)をはるかに下回る数値である。移設の際に橋の一部からコンクリートコアを採取して行った物性試験の結果がそれを証明している(図-2、3)。
中でも興味深いのは、PC鋼線を所定の緊張力まで引っ張る「重錘型緊張機」(写真-6)と、引っ張ったPC鋼線を鋼製箱形アバットの背面で確実に固定する定着装置、そしてコンクリートが固まったあとPC鋼線を緩めてコンクリートにプレストレスを導入する「初応力導入装置」(写真-7)と呼ばれていた三つの装置である。「重錘型緊張機」の原理は昔の棹秤の応用である。
必要な緊張力を予め重りの重量換算して天秤に乗せておき、モーターで巻き取られたロッドの引張り力と重りの重さが釣り合った瞬間に天秤が上に跳ね上がりモーターが止まる、という梃子の原理を巧みに利用して考案したものである。昭和40(1965)年代の初めまで現役であったという。
筆者もこの装置を実際に作動させて見たが、原理通りきちんと動いてくれた時は思わず胸が熱くなった覚えがある。また、「初応力導入装置」はターンバックルの引張力調整の原理を逆応用した巧みな仕組みとなっている。
対象に向かい合った2個ひと組の「コの字形」の鉄枠の中には、上端と下端にくさび形の治具(「導入駒」と呼んでいた)が向かい合わせに入っており、それぞれ正ネジと逆ネジが切られた1本のシャフトでつながれている(写真-8)。シャフト上端の外に飛び出た四角に加工された部分にハンドルを差し込んでこのシャフトを右回転させると、上の駒は上方に上がり、下の駒は下方に下がり、その結果、導入装置本体がネジシャフトの中心に向かって両側から擦り寄って閉じることになる。
左回転させた場合はその逆で上の駒が下方に下がり、下の駒が上方に上がることで導入装置本体は外側へ押し出される形で開くことになる。
この装置を前述の鋼製型枠と定着装置の間に開いた状態で設置する(写真-9)。コンクリートが硬化し所定の強度に達した後、この装置を作動(右回転)させると導入装置が閉じ、鋼製型枠と定着装置の間に隙間が出来ることで引っ張られていたPC鋼線が緩み、コンクリートにはプレストレスが導入される仕組みである。
このようにしてコンクリートに関してまったくの門外漢であった造船技術屋が、大学教授やコンクリートの専門家のアドバイスを受けながら、前述のホイヤー著、「Stahlsaitenbeton」を基に勉強を始めてから、わずか1年あまりでPC道路橋の実用化にこぎつけたのであった。

7.おわりに

 当初、造船所が長生橋を架けることに反対する動きが地元建設業者の間にあったらしい。詳細な経緯は不明であるが、戦後初の公選市長となった神野亮二(かんのりょうじ)(昭和22.4~30.4在任)がその反対を押し切ったという裏話が残っている。その直後施工された県立七尾高校前の橋の架け替えが木橋であったことを考えると、技術的に未成熟なPCに対する不安というより、造船屋が橋を架けることに対する違和感があったと思われる。

 しかしながら、長年外国にも滞在し新しい技術に理解を示していた神野と、戦後の混乱期に折角根付いた地方産業を存続させようと日夜尽力していた上村との以心伝心が、歴史に残る初めてのPC橋を実現したと想像する。そして、七尾造船所は、長生橋が竣工してまもなく昭和27(1952)年2月28日をもって閉鎖され、明けて3月1日、造船所の諸施設および従業員を引き継いだ新会社「ピー・エス・コンクリート株式會社」として生まれ変わったのであった。

 移設・復元された長生橋は、現在七尾市郊外の希望の丘公園で当時の面影のまま歩道橋としてひっそりと余生を送っている。50年前のコンクリートの肌に触れば温故知新を感じることが出来るかもしれない(写真-10)。前出の藤田佐一郎の遺稿本、雷音(ライオン)から、「後についての仕事はやさしく、最初の開拓者、その人を尊敬しなければならない。」を拝借して脱稿としたい。
(奥田由法)